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大友氏館跡

大友館跡(庭園跡)西から 大友氏館跡(庭園跡)東から
内容

【所在地(住所)】

大分市顕徳町三丁目

【内容】

 鎌倉時代から戦国時代(12世紀末から16世紀)は、大友氏(初代能直から第22代義統)が豊後府内の主として君臨していました。中でも21代義鎮(よししげ)(享禄3年―1530-生まれ、後に宗麟と名乗る)は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らの天下人とほぼ同世代の人ですが、天文19年(1550)、21歳で家督を継ぎ父義鑑(よしあき)から受け継いだ豊後・肥後に加え、肥前・筑前・筑後・豊前の北部九州6国の守護職を手に入れ、九州探題(たんだい)にも任じられました。領国を拡大させた宗麟は、毛利(もうり)氏・龍造寺(りゅうぞうじ)氏・島津氏らと九州の覇権をめぐる戦いをくりひろげる一方、中国や東南アジア、ポルトガルなどとの外国貿易を積極的に進めました。また、フランシスコ・ザビエルを招いて領内でのキリスト教の布教を許可し、手厚く保護しました。宗麟は豊後府内の都市改造を行い、5000戸ほどの家屋が建ち並ぶ九州最大の国際貿易とし豊後府内を完成させました。府内のまちは大分川河口左岸、現在の元町から長浜町にかけて南北約2.2km、東西約0.7kmの範囲に広がり、南北に4本、これと交差する東西5本の道路によって格子状に区画されていました。町の中心には約200m四方の広大な面積の大友館が築かれ、戦国大名の館としては全国屈指の規模でした。発掘調査によって庭園跡や礎石を伴った大型建物跡などが発見されています。大友館を中心にして、万寿寺など多くの寺社も建てられ、道路に沿って40あまりの町がつくられ、その西側には教会や西洋病院、学校(コレジオ)が置かれ南蛮文化のかおり高い都市として発展しました。しかし天正6年(1578)、宗麟は日向国高城(宮崎県湯郡)で薩摩の島津義久と戦って大敗し、以後大友氏は衰退に向かいました。天正14年(1586)の島津家久軍の攻撃で豊後府内の町は焼土と化しました。翌年、宗麟は津久見にて58歳の生涯を閉じました。22代義統(よしむね)は、秀吉から豊後国を領地として安堵されましたが、400年あまり続いた名族大友氏の豊後支配は終わりました。大友氏館と旧万寿寺跡は、大友氏遺跡の名称で国指定史跡となっています。

【文化財の指定】国史跡

【交通アクセス】

媒体写真
管理施設/お問い合わせ先 文化財課
大分市荷揚町2番31号
TEL:097-534-6111  FAX:097-532-8102
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