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脇蘭室墓

内容

【所在地(住所)】
大分県大分市鶴崎
【内容】
 蘭室は明和元年(1764)5月12日、幕府領の速見郡小浦(今の日出町豊岡)の庄屋脇家に生まれ、名を長之、字を子善といい、通称儀一郎と呼ばれていました。また、愚山とも称し、他に蘭と菊を愛したことから蘭室・菊園とも名乗っていました。蘭室は21歳のときから薮弧山(やぶこざん)、三浦梅園、中井竹山(なかいちくざん)に入門し朱子学を学び、26歳の時に郷里小浦に塾を開き、帆足萬里を初めとする逸材を多数輩出しました。寛政10年(1798)、35歳の時に熊本藩に招聘(しょうへい)されて熊本におもむき、藩校時習館の訓導(助教授)となり、後身の指導に努めましたが、翌年に辞意を示し熊本領鶴崎定詰藩士の子弟の教育にあたることになりました。この後、鶴崎に煙霞楼(えんかろう)という名の居宅を構え、文化11年(1814)10月3日に51歳で亡くなるまで藩士子弟、近隣の子弟の教育に尽くしたと伝えられ、同時にその生涯において数多くの著書・漢詩文を残しています。鶴崎に残る墓碑には縦長の隋円形をした扁平な自然石が使用され、表面には蘭室の高弟帆足萬里による「文教脇先生墓」の六字が彫り込まれています。墓石の高さ1.55mで地面からの全高は2.33mにもなります。
【文化財の指定】県指定 史跡
【交通アクセス】 

媒体写真
管理施設/お問い合わせ先 文化財課
大分市荷揚町2番31号
TEL:097-534-6111  FAX:097-532-8102
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