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毛利空桑旧宅及び塾跡

内容

【所在地(住所)】

大分県大分市鶴崎

【内容】

毛利空桑(1797~1884年)は、幕末から明治初めに活躍した儒学者・尊皇論者・教育家です。寛政9年(1779)1月15日に熊本藩領の常行(つねゆき)村(大字常行)で親父太玄(たいげん)(泰元)と母親阿秀(おひで)の第2子として生まれました。14歳で鶴崎の脇蘭室に漢学を、17歳で日出の帆足萬里に儒学を学びました。23歳で熊本藩校時習館の大城霞坪(かへい)に儒学26歳のとき福岡の亀井昭陽に古文辞学を学びました。文政7年(1824)に郷里常行村に私塾知来館を開き、後に鶴崎詰めの熊本藩士子弟の指導方にも任じられました。現存する知来館は、現在地に安政4年(1857)熊本藩の援助によって建てられました。教育の目標は文武両道とし、「文ありて武なきは真の文人ならず。武ありて文なきは真の武人にあらず。」の信念に基づいて、飲酒、男女交際、娯楽の禁止など25ヶ条にのぼる塾則が定められていました。1階は生徒の日常生活の場、2階が講義室となっており、講義は朝講、午講、夜講のほか詩会と文会がありました。門下生は890人を数え、鶴崎出身者が481名と最も多く、遠くからは、山城(京都)、和泉(大阪)、美濃(岐阜)から生徒が集まり学問に励みました。(「毛利空桑全集」)長州藩の吉田松陰(よしだしょういん)や岡藩の小河一敏(おごうかずとし)らと交流があり尊皇思想を主張、長州藩の脱藩者大楽(だいらく)源太郎をかくまったとして熊本へ護送、投獄されました。また明治の民権運動には国体をそこなうとして反対しました。空桑私宅の天勝堂は、安政4年(1857)に知来館と一緒に七軒町に建設されたもので、1階は5室、2階は3室からなっており、2階の梯子は防戦のため取りはずしができる構造となっています。江戸時代の民家の造りを伝える貴重な建物です。

【文化財の指定】県指定 史跡

【交通アクセス】  JR鶴崎駅から徒歩10分

媒体写真
管理施設/お問い合わせ先 文化財課
大分市荷揚町2番31号
TEL:097-534-6111  FAX:097-532-8102
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