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毛利空桑

内容

【所在地(住所)】

【内容】
 幕末から明治初めに活躍した儒学者・教育家・尊皇(そんのう)論者。名は倹(けん)、通称は到(いたる)、空桑は号です。鶴崎の脇蘭室(わきらんしつ)、日出の帆足万里(ほあしばんり)に学び、また熊本の大城霞坪(おおきかへい)、福岡の亀井昭陽(かめいしょうよう)に教えを受けました。文政7年(1824)に郷里の常行村(現大字常行)に私塾・知来館を開き、後には釣る先の熊本藩士子弟の指導方にも任じられました。「文ありて武なきは真の文人にあらず。武ありて文なきは真の武人にあらず」を信念とした剛毅端正(ごうきたんせい)な人で、勤倹(きんけん)を実践して指定の指導にあたりました。長州藩の吉田松陰(よしだしょういん)や岡藩の小河一敏(おごうかずとし)らと交流を持ち尊皇の思想を主張、聴衆の脱藩者・大楽源太郎(だいらくげんたろう)をかくまって牢に入れられたこともあります。また、明治の民権思想は国体を損なうとして反対しました。明治17年(1884)に、生涯をとおして青少年の教育に携わったことに対して従六位の位が与えられました。88歳でこの世を去った空桑の墓は常行にあり、県指定史跡になっています。
【文化財の指定】
【交通アクセス】

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大分市荷揚町2番31号
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